2021/11/20
連休は泥のように寝て、好きな映画を見て、自転車で爆走していた。
自分の時間でいっぱいいっぱいだったので日記が滞った。
今日は11/24。また自分の時間が足りなくなったので日記を再開する。
今回は20日に友人と電話会をしていた時のことを書く。
友人は最近ポケモンのダイアモンドパールのリメイク版を買ったらしい。話を聞く限り、めちゃくちゃやりこんでいて、忙しいらしい。いいことだ。
ポケモン関連で話を聞いていると、友人の知り合いの話になった。
友人の知り合いは縛りゲーをしているらしく、全ての手持ちポケモンを共通の性格を持ったピカチュウで揃えているらしい。そして友人の、また別の知り合いは、目当ての性格のポケモンが出るまでリセマラをしているそう。
自分はポケモンはアニメと漫画でしか知らないので、ゲームのシステムはよくわからないのだが、目当てのポケモンを出すための交配方法とかもあるらしく(メタモンを使うとか言っていたような)「なるほど〜」と興味深く聞いていた。
けれどその話をしてくれた友人は、そのことについてはあまりよく思っていないらしい。あくまでもポケモンとは出会いであり、故意に交配やリセマラをして思い通りのものを生み出すものではないとのこと。
この話を聞いて、なんて尊い考えを持っているんだ!と感動したし、データに対してそこまでの思い入れができるほど、ユーザーをめり込ませるポケモンって凄いゲームなんだなと思った。
友人のポケモン観の話を聞いていたときにアイボの葬式を思い出した。
愛玩ロボットやデータ上の生き物に対しての慈しみは、愛着のある道具や楽器への慈しみと同じ感情なのだろうか。
道具との出会いと、育成ゲーム上での出会いは同じなのだろうか。
そもそもポケモンってゲーム上で死って用意されているのか?
と思って「ポケモン 死」とかで検索した。不謹慎だな〜
一応アニメ上で星になったポケモンは存在しているらしい。
直接的に描かれている描写は少ないっぽい。
そして調べてみてもゲーム上ではポケモンは生き続けるみたい。
データが飛ぶ以外は逃さない限り生き続けるっぽい。
友人の知り合いの話に戻ってみる。
あくまでゲームなのでプレイヤーは何をやってもいいし、ポケモンも死なないのでリセマラをしても心は痛まないのかもしれない。
もしポケモンに死とかお別れの概念が追加されると変わってくるのかもしれないな。
でもお別れは嫌なので、ポケモンくらいは生き続けてほしいな。